2010年9月25日土曜日

メディアの功罪

行政代執行による宮下公園のテント等撤去に関するニュースが各局で放送され、ある意味で一歩前進ではないかと思った。公園の公共性や野宿者保護の観点から、整備計画=「NIKE宮下パークの建設」に反対する人々の問題提起が初めて社会に届いたといえよう。

貧困、自殺、あるいは凄惨な殺人事件等、多くの人に関係する、あるいは関係するかもしれない話題に比べれば、一つの公園の運命は必ずしも具体的な影響のある話題ではないかもしれない。しかし、野宿者保護はもちろんのこと、新自由主義的な発想で地域行政が企業に阿(おもね)る傾向や、公共空間の利用に関する議論は、本質的には今後の社会の様相を左右するといっても過言ではないだろう。一つの具体例として、宮下公園の話題がマスメディアに登場したことは歓迎したい。

ただし、これは手放しの歓迎ではない。お粗末な報道が多いからだ。

ニュースとなった行政代執行は、ある意味で渋谷区の企みの最後のプロセスにすぎない。ここへ至るまでの間、区は着々と「排除」という既成事実を積み重ねてきた。そもそも、宮下公園は30人以上の人々が寝泊りをする場所であり、今年2月にそんな彼らを駅へ続く線路沿いのテントへ渋谷区が移転させたという事実がある。

これを、区は「代替地」と呼ぶが、支援者らの間では「鶏小屋」と呼ばれている。一見、野宿者の保護に積極的なように感じる向きもあるかもしれないが、とんでもない話だ。バイク置き場の裏側に、フェンスとブルーシートで作られた<官製のテント>はバイクの排気ガスとエンジン音に晒され、夏は摂氏40度を越える暑さだったという。公園のように木陰はないため、直接陽が当たるのだ。ダムで埋まる村に対する代替地は通常、それなりの規模の一戸建てだったりするが、野宿者相手ならばアパートないし寮での保護を勧めるのが筋であろう。そもそも、ホームレス自立支援特措法というのは、そういう法律のはずだ。劣悪な場所に代替のテントを作ることを、「支援施策」とは言わない。ただのゲットーだ。ちなみに、この夏「鶏小屋」では、一人の男性が重度の糖尿病によって亡くなっている。 彼を殺したのは誰か。言うまでもなかろう。

福祉政策が脆弱な状態で公共の場を潰すというのは、行くあてのない人間までも殺す、ということを意味する。

だが、TBSの報道ではこの「鶏小屋」の映像に、あたかも「撤去される対象のテント」であるかのようなナレーションをつけて流していた。なんともお粗末な誤報である。撮影したのは、<撤去の対象などではなく、渋谷区による過去の撤去の結果である>という、厳然たる事実を彼らは理解していないと思われる。これは、マスメディアの取材班がいかに現場から情報を得ていないかを証明するようなニュースだった。では、彼らは何から情報を得ているのか。

行政代執行による撤去が行われた24日。午前10時から30分間、渋谷区は宮下公園の内部をメディアに公開した。ネットメディアをアウトプットとするVJUOur Planet TVも快く中に入れてくれるとは、なかなかオープンじゃないか、と思ったのもつかの間。とんでもない光景を目にしてしまった。

公園内で多数のTVクルーがいっせいにカメラを向けている対象。それは、過去の撤去作業によって残された野宿者たちの生活用品であった。そこだけフェンスを外し、「撮ってください」と言わんばかりに職員たちがクルーを案内する。廃棄された生活用品を我先にと撮影する取材陣。本来は、撤去を行った渋谷区がとっくに処理していてしかるべきものを、だ。支援者らの話によれば、渋谷区はこれを<整備計画に反対する人々が散らかしたゴミだ、と喧伝している>というのだから、まったく呆れた話だ。 まさに情報操作以外の何物でもない。なんのことはない、彼らは公園を閉鎖的で一時的な記者クラブに仕立てて、一方的なディスクール(言説)をメディアに流したかったというわけだ。

渋谷区の狡猾さは言うに及ばずだが、逆に言えばマスメディアはナメられているのである。

記者クラブなどで行われる「大本営発表」を鵜呑みにして、自らディスクール(言説)を構築しようとしない。その怠惰な習性を、巧みに利用されているということである。長期・継続取材も可能な特集番組とは違い、ニュースの報道は記者と技術陣によって行われる流れ作業だ。そこには当然限界もあることだろうが、あまりにも情けない事態である。今に始まったことではないが・・・

今のところ、DROPOUT TVのコンテンツは当事者や支援者の皆さんには概ね好評だ。「よかったよ」と言われると、それだけで報われる気持ちになる。だが、これはあくまで相対的な評価だろう。非営利で、無償の活動であるD-TVに費やせる時間は限られている。凝ったものを作る余裕はないので、あえてオーソドックスな様式で最低限の努力を続けている。


もろもろ無理はあるものの、われわれが無償でやっていることを、有償なのにできていないマスメディアのほうに問題があるのだろうと解釈する。

2010年9月22日水曜日

行政マンの誇りやいずこ

宮下公園が封鎖された。DROPOUT TV ONLINE でもニュースをアップしたが、封鎖当日は早朝に支援者から連絡を受け、VJUは現場に急行。徹底した警備体制にも驚いたが、何より呆れたのは公園課長の暴言の数々であった。

「どこに行けばいいんですか?寝場所は?」と遠慮がちに問う野宿の人に「探してよ」と言い放つ。支援者らのブーイングに慌ててそれを否定し、「見つからないなら、相談に来てよ」と言い直す。単なる失言であろうし、それをあえて追及するのは揚げ足取りというものだろう。

ただ、そんな失言には野宿者に対する差別的な意識が見え隠れする気がして、やりとりをあえて場面に入れさせてもらった。渋谷区は強制代執行も宣言し、整備計画=宮下NIKEパーク建設計画をごり押しする姿勢。もろもろ覚悟の上だろうから、容赦はしない。

彼のべらんめえ口調はある意味ユーモラスであり、ガードマンに囲まれながら登場する場面は、まるでスターウォーズのベイダー卿さながら。「格好いいだろ」とニヤリと笑うあたり、憎めない人物のようにも思われる。どちらにせよ、彼はあくまで現場担当者にすぎないので、個人としての評価は些細なこと。

重要なのは、区長をトップに行政マンたちが、自ら管理する空間をどう捉えているのか、という点だ。

今までの取材で聞いた限り、彼らは「管理責任者であることは所有者であること」と履き違えているようである。工事説明会では、「区民」を集めて意見を聞く、というような姿勢を示しつつ、あくまで「計画の報告」に終始した。

その「区民」たちは、ただの添え物なのか、地権者なのか・・・いずれにせよ、初めから計画に賛成する人々のように感じた。高齢者ばかりが集まっていて「ボーダー用のスケート場を作ってほしい」と主張するのには、正直なところ失笑を禁じえなかった。「NIKEパークができたら、あんた滑るのかい?」と質問しようかと思ったくらいだ。

こういう問題の賛否は「誰が得をするか」という点で分かれると言っていい。彼らは整備計画でなんらかの得をする、あるいは得をすると見込んでいる人々であるのだろう。真相は不明なので、それ以上は書かない。問題は、公共空間の利用を利用者抜きで考えていいのか、という点だ。

渋谷区の公園課長は過去に「ナイキから金もらって何が悪い。金もらって整備してもらって、区の財政も助かっていいことずくめじゃないか」という発言をした。だが、その財源はどこから来ているのか。逆に問いたい。渋谷区のあの高密度な商業空間を考えれば、法人税収の割合は比較的高いだろうし、圧倒的な数の店舗に金を落としているのは住民ではなく、他の地域から訪問した人間たちであるはずだ。

タバコを買うでも、一杯やるにしても、渋谷に立ち寄った人々はさまざまな形で税収に貢献しているはずであり、それを無視するのはいかがなものか。そして、都市空間で時間をつぶそうと思ったとき、選択肢が喫茶店だけでは参る。コーヒーなど何杯も飲めるわけではないし、安くもない。そもそも、時間を潰すために金を払うということは無駄である。なんとなくボーっとできる空間があることは大事だし、野宿する人々にとっては死活問題。住民票があろうがなかろうが、自由に利用できる空間くらいは当たり前にあるというのが都市の懐の深さというものだろう。そこがまた有料施設になってしまうというのは、あまりにも息苦しい。

「財政が苦しいから、トイレは全部有料にします」

と言っているようなものだ。今やコンビニでさえ、何も買わなくてもトイレは貸してくれる。

行政マンの誇りはどこにあるのか。何か勘違いしていないか。地方公務員はあくまで公から雇われた身であって、公に君臨する身ではない。渋谷区にとっての公は区政だけが支えるのではなく、訪れる多くの人々が支えている。それを忘れてもらっては困る。

突然の実力行使に怒る市民たちは、明日から大規模な抗議行動に出るという。単なる小競り合いに終わるのか、社会に対する大きな問題提起になるか・・・

いずれにせよ、宮下公園の問題は、日本人の公共感覚が問われる試金石だと思う。