2010年8月30日月曜日

無関心と勇気


猛暑続きの中、部屋にエアコンのない独居老人が何人も亡くなっているという。その中には、元ホームレスで生活保護によってアパートに入居した人もいるらしい。なんとも痛ましい話だ。保護によって最低限の生活が必ずしも保障されていないというのも問題だが、社会的に孤立した中で亡くなっていく、という点は、看過できない。むしろ、それこそが福祉やホームレス問題の本質であるようにさえ思う。

少し前の話題になるが、「第4回VJが訊く!」(3月15日開催)のゲストとして登場してくれた稲葉剛さん(NPOもやい・代表理事)は、ホームレスに対する無関心と最も長く闘ってきた一人だ。学生時代からのつきあいなので、自分にとっても最も長い盟友ということになる。今回は彼が上梓した「ハウジングプア」の出版記念という意味合いも込めて、ホームレス問題の最前線について語り合ったが、今や彼は時の人だ。

かつては「特殊な人々の問題」とされてきた貧困問題が、1999年の労働者派遣法改正以降、さまざまな立場の人に降りかかっている。非正規雇用労働者だけではない。正社員も、新卒学生さえも、今や「奴隷となるか、宿無しになるか」の二者択一を求められているかのようだ。なんのことはない。新自由主義とは、ホームレスを作り出すような労働環境を日本中に拡大し、企業だけが儲かる国を作ることだったわけである。社会の人々の多くが「他人事」と考えているうちに事態は進行した。そして、この有様である。こういう時代になって、ようやく稲葉さんらの訴えが注目されるというのは、喜ばしい反面、皮肉な事態といわざるを得ない。 ホームレス問題の構造をきちんと考えれば、十分に予測できたはずの事態である。公の場でも「それみたことか」と、つい喉まで出かかってしまう。

かくいう自分も、初めから野宿する人々の人権問題を理解していたわけではない。稲葉さんや黒岩大助さん(現・のじれん)らのグループ「渋谷・原宿 生命と権利をかちとる会(いのけん)」が、野宿者支援を始めた20年ほど前、その動機に今ひとつ共感しきれない自分がいた。 <努力しても報われないことがある> という絶対的な事実を、下請け労働者としての映像制作者という立場で、身を以って知るまでは―

その後の数年は、ほぼ一連托生のように現場で共に闘った。といっても、もちろん自分は取材者ないし記録担当者のような立場だったので、彼らの努力に及ぶほどのことはまったくできていないと思う。 彼らは、本当に根気強かった。

90年代後半、新宿の地下広場から西口4号街路まで、おびただしい数のダンボールハウスが並び、通勤する人々は毎日「見て見ぬふりをして」通り過ぎていた。当時の通行人に行った取材では、驚くべきことに「野宿する人は自由でうらやましい」などと発言する人が、少なくなかった。それに対して、「野宿している人と話したことはありますか」とさらに訊くと、「ないですね」とすべての人が答えるのだ。目の前に存在する事実を受け止めず、単に自分の人生観を投影して思考停止する発想。遠い中東の砂漠でもない、アマゾンの原生林でもない。目の前にある現実と人々の意識は、そうやって遮断されていた。

そんななか、「いのけん」の面々たちは毎晩のように野宿する一人一人と「話し込み」(ヒアリング)をして、倒れた人がいれば救急車を呼び、亡くなった人には花を手向けた。警察がダンボール撤去に動こうものなら、深夜でも早朝でも飛んできて対応した。地下通路の入り口では、粘り強く情宣活動を行っていた。一晩に数枚ハケればいい、というようなチラシを何十枚も刷って、である。「いのけん」はその後、 山谷の支援団体と合流し、当事者とともに「新宿連絡会」を立ち上げたが、そのとき彼らは、市民から遮断された壁の向こう側に立っていたといえるだろう。その不断の努力を思い起こすとき、深い敬意と心強さに満たされる。

ちなみに、この頃の動きについては、「俺たちは人間だ-新宿ホームレスの闘い-」(1994)という短い作品で残っている。もちろん、当時のビデオアクティビズムを象徴する存在だった「新宿路上TV」(1995-1998)や、「そこに街があった -新宿ホームレス強制撤去-」(1996)などのラインナップも、彼らとの共闘なしには、ありえなかった作品群である。

時代は変遷し、今は多くの人々が同じ壁の中にいる。かつて届かなかったさまざまな思いが、公の場できちんと議論されるようになった。貧困問題にもたくさんの切り口があるが、稲葉さんの場合は「住宅政策」を軸に活動を展開させている。どちらかといえば研究者肌の、彼らしいやり方だと思う。イベントでは、<ハウジングプアがいかに普遍性のある問題なのか>をアピールしよう、と打ち合わせてトークを進めた。

「国に、住宅省を作るよう働きかけます」

と彼が宣言したとき、会場の参加者たちの多くが頷き、拍手してくれた。地下通路の住人たちと日々わいわいやりながらコミュニティを作っていた、あの頃を思い出すような空気感。壊れてしまった社会ならば、もう一度作ればいい。そんな勇気を、古き盟友からまたもらった。