2009年6月15日月曜日

「はっ」とする瞬間


ドキュメンタリーを作るというと、何か「現実をただ撮っている」と思われがちだが、ホンキでやるのはそう簡単ではない。一通りこなせるようになるには何年もかかる。(前回書いたとおり)理論ももちろん重要だが、学び方・教え方というのはまた、違う一つのテーマである。

この度、ミニ・ワークショップを前面に立てた、2回目のVJU企業組合説明会を無事開催。「客足」はイマイチだったけど、参加者の方には楽しんでいただけたようで、まあ一安心。初対面でも、何か「はっ」と驚くものを提供するのが、自分のモットーである。「サービス精神が旺盛」と言われることもあるが…たぶん教えるのが好きなんだろうと思う。

とはいえ、一方的に講義するのはあまり好きではない。どうも自分の声質は眠りを誘うらしく、一方的だとたいてい生徒が眠ってしまうからである。そんなわけで、大学の授業も基本的には「対話」で行う。授業の間、1本のワイヤレスマイクが教室を一周する、というのがいつものパターン。
最初は学生たちもビビってしまって、あまり発言をしないのだが、1ヶ月もすると慣れてくる。誰かが眠っているようだと、これはアラームだ。とりあえずその子を起こしてから、やおら刺激になるような演習を始める。

そんな方法で何年も授業をやってきたので、かなりパフォーマンスが得意になった。もちろん「体験させて驚かせる」のが目的だから、なかなか準備も大変である。ネットカラオケを利用してマルチカメラ撮影をやったり、突然思いついてグループで撮影の練習をさせたりするので、大学では機材管理のスタッフたちにいつもエライ思いをさせている。

企業組合のほうでは、「小道具や衣装を用意して誰かに演技をさせる」というのが定番になりつつある。去年の夏は手品、前回の説明会は医師と看護師、今回は塗装職人ということで、何かコスプレ集団のようだが、いつも大マジ。いかに笑いをとれるかも重要である。自分は指示するだけなので周囲にとっては大いに迷惑かもしれないが、まあ楽しいほうがいい。

すべては、未経験の人が映像を学んで「はっ」とする、その瞬間のためだ。

一つ一つは、あっという間の体験にすぎない。けれども、一つの発見が興味を呼び制作の動機につながっていくと考えれば、実は賞味期限は長い。積み重ねれば、磐石の基礎になる。企業組合の若者たちに教え始めたのは去年のことだが、一人一人が少しずつ成長しているのがわかるのも嬉しい。当初は彼ら自身が単なる初心者だったが、今ではしっかりと参加者をリードできるようになった。まさに「継続は力なり」である。


準備会を発足してもうすぐ1年。思い描いたようにはなかなか進まないことも多いが、地道に、着実に、一歩一歩進む毎日に未来を信じられるようになりつつある今日この頃だ。講師役の自分も含めて、「信じる」力を保ち続けられることもまた、仲間づくりの良さだなあと最近思う。

2009年6月4日木曜日

見えない世界の冒険


レストランに厨房が、病院にナースステーションがあるように、仕事の本質は必ずしも目につくところにはない。映像の仕事もまたしかり。クルーを伴わずに現場に赴くと「カメラマンさん」と呼ばれることがあるが、これはワープロを使う小説家を「タイピスト」と呼ぶようなものだ。

映像は視覚的にリアルなぶん、ややこしいのだが…視聴者が目にしたり耳にしたりする部分は、レストランで言えば目の前の料理にすぎず、それを作る方法論はホールからは見えない厨房に隠されている。

目で見るメディアの本質は、実は目に見えないところにある。

この逆説的な真実を視聴者が理解できない、というメディアリテラシーの課題はもちろん重要だ。しかし、もっと問題なのは、映像のプロでさえこれを主観的にしか捉えきれていない点にある。多くのプロは経験によって方法を学び、経験によってこれをブラッシュアップしていく。単に仕事を続けるうえでは、あまり困ることはない。

しかし、後継者を育てるという観点ではあまり効率的とはいえない。あるプロダクションでは、AD10人を雇ったとして、ディレクターに育つのはせいぜい1人か2人だという。労働条件や、個々の資質や、さまざまな要因が考えられるが、経験則を経験によって伝えるという教育方法も壁の一つだと自分は思う。業界では「習うのではなくて、盗め」とよく言われる。一見、気の利いた助言のように思えるけれども、実は「教える方法を知らない」言い訳なのではないだろうか。

撮影や編集など、技術的な方法(ハード)をいくら学んだところで作品は作れない。メッセージを形にしていくのは、むしろ目には見えないさまざまな制作的方法(ソフト)だ。一般的な言葉で言えば、<情報の整理術>や<コミュニケーションのコツ>あるいは<プレゼンテーション能力>というような能力の集積なのだ。その一番大切な部分が、主観的な経験によってしか語られない。あるいは個々の人格の問題に帰される。それでは後継者が育たないのは当然だろうと思う。

さらに問題なのは、制作者が表現に無自覚であることは、意図せずに表現上の報道被害を生んでしまうことだ。取材された側が「差別的」だと感じたり、現場の実感が伝わらないような報道は、悪意によって生まれるのではなく、制作者の無自覚から生まれる。

ともあれ、自分は映像制作そのものと並行して、長年経験談としてしか語られてこなかった映像制作の本質的な方法論を改めて言語化し、マスメディアの表現上の問題を位置づけ直し、普遍的な理解を通じて後発を育成することを目指してきた。関連書籍の読書会から始めて、なんとか体系化の途についたのが10年前。大学での授業や合資会社VJUにおけるワークショップでの経験を互いにフィードバックさせ、去年あたりにようやく持論の全貌が見えてきた。

「統合理論」と呼ぶオリジナルの体系。これは、個人制作時代の新しい映像理解の道筋であり、同時にマスメディアにおける表現の問題を批判的に乗り越えるための理論だ。簡単に言えば、映像制作の世界に今まで存在しなかった、<学問的根拠に基づいた>映像分析と制作の方法を示す「地図」である。

といっても、マスコミ論メディア論は主にメディア装置とその影響を対象に研究する分野、ジャーナリズム論は活字メディアの研究がベースの理念、といったように、従来のアプローチでこれを構築するのは無理だった。映像表現のあり方を研究をするのに最も適したツールとして自分が目を付けたのは、記号論物語論といったジャンルだ。アカデミズムでは構造主義批判とともにすでに打ち捨てられた感があるようだが、映像作家としての経験に真摯に照らし、最も有効だと感じて理論の主軸とした。

そんなわけで、合資会社の頃からVJUは(理論は未完成ではあったものの)「神話」だの「脱構築」だの特有の概念が飛び交う実に不思議な職場になった。それは単なる言葉遊びではない。自らの作品の方向性についてきちんと自覚し、互いに議論を共有できた若きVJたちの作品は、局はもとより、他ならぬ取材相手の人々にもおしなべて評判が良かったのである。内容に抗議を受けたことは一度もなく、放送後、感謝の手紙やFAXが送られてくるのは日常的だった。これらは必ずしもすべてが理論の成果とは断定できない。だが少なくとも、まったくの素人がわずか1~2年の訓練でそこまで達成できるということじたい、長い下積み修行が一般的な映像業界では珍しい。

と書くと、いかにも自分が明晰な分析力と自覚を持って皆を引っ張ってきたかのようだが、必ずしもそうではない。自分自身で自らの方法論を対象化するのは、「目に見えない」だけにやはり難しく、その後も試行錯誤は続いた。

さらに、映像制作におけるいくつかの側面については記号論的には説明ができないため、最近ではまったく別分野の学問の力を借りることも増えている。


例えば、映像の入り口にあたる「視覚認識のメカニズム」だ。「少しずつ異なる静止画を連続して見せると動いて見える」という動画に対する基本的な視覚的反応について、どう解釈すべきなのか。従来は視神経の生理的反応「残像効果」によって起きると考えられていたが、現在では「欠落する情報を脳が補うからだ」と言われている。これは大脳生理学の研究成果である。

少し次元は異なるが、「脳」は撮影の技法においても無視できない領域だ。メッセージの内容については文化研究の延長で語ることができるが、撮影とは身体の動きを伴う技術なので、「こうあるべき」という判断力だけでは習得が難しい。その訓練に際し「ワーキングメモリ(作業内記憶)」や「チャンク化」といった認知心理学概念を用いると有効であることが、最近わかってきた。

一方、インタビューの方法論については、ラポールライフヒストリー法など社会調査法の概念や方法論を参考にしている。こちらのほうは、「フィールドワーク」という共通のツールを地盤とするために、異業種のわれわれにも理解しやすく、適用しやすい。

というわけで、この理論はさまざまな学問分野を横断するような、悪く言えば今やツギハギ的な様相を呈している。が、映像表現の研究の中に、異なるさまざまな分野との結節点を見出せるという点は、なかなかエキサイティングなことである。アカデミシャンでない自分にとって、分野を飛び越えることには、何の躊躇もない。学者の皆さんにはもうしわけないが、実践者として「役に立つ」と思われる理論・概念だけをこれからも利用させてもらうだろう。

面白いのは、新たな発想のもとでワークショップや授業を行うと、必ずまた新しい発見があることだ。後輩や学生たちの新鮮な驚き、突拍子もない質問、想像もできない失敗…そのなかに、また新しい訓練の方法や、もっと気の利いた説明の方法が見えてくる。映像の話なのに、心理学や脳、はたまたスポーツや音楽の話にまで展開するハチャメチャな「冒険」を、彼らも一緒に楽しんでくれている感じだ。今までに教えた相手もかなり幅広い。神戸の小学生、パレスチナの高校生、ドイツや中国からの留学生もいた。不思議なことに、年齢や国籍による反応の差はあまり感じられない。

だから、統合理論とこれをベースにしたワークショップの方法論は、いわば彼らとの合作だ。「教える」という場でたくさんの出会いと別れがあったけれども、関わった全員に感謝したい、とつくづく思う。当初は難しい理論をそのままぶつけてずいぶん「お客さん」を困惑させたが、訓練の方法がこなれるとともに、「わかりやすい、面白いと友達に聞いて」授業を受けてくれる学生が増えたのも嬉しい。「この理論をぜひ教科書に」という声も高まっている。

6月13日(土)、VJU企業組合準備会の主催でその一部を披露する。今回のカリキュラムは企業組合のメンバー自身が考えてくれた。彼らは、ほぼ一年かけて統合理論を学んできた。独自のワークショップを通じて、冒険の輪がまた広がる。探求してきたことがだんだん皆の理論になっていく。そこから始まる映像作りのさまざまな可能性に、今、大きな期待を抱いている。